「負け」とその後について。
アメリカのドラマに「TOUCH/タッチ」(FOX2012年)というシリーズがある。
キーファー・サザーランド演じる父親が、息子の「いたずら」に関して、男に謝るシーンが出てくる。
その男とは実はお互いに知らないものの、のちに深いえにしがある事を知るのだが、ここでは触れない。
この男、子供に激怒し、父親が誤ったのにも関わらず悪態をつく。
「檻にでも入れておけ」と。
これにカチンときた父親は男に殴りかかる。
第2ラウンド開始である。
第1ラウンドはけんかではない。
一方的に悪いと思った子どもの父親が、迷惑をかけた相手に謝罪しただけである。
しかし、謝罪というかたちで、ひざを屈したのは確かである。
通常、一度行えばそれで終わりである。
これが常識であり、尊厳のある人間のすることだ。
この後に起ることは別の「新しい事件」であり、謝罪の後に侮辱されたら、今度は相手と戦う。
スポーツでも同じ。
今日の試合に負けたら、明日はぜったい負けないぞ!と言うだろうし、チンピラだって、「覚えていろよ!」と言いながら逃げていく。
今は一度決着がついても、また新しく始まるのが人生であり、自然の摂理である。
始まりと終わりは常にセットで、繰り返す。
翻って今の日本はどうだろうか?
ほぼ70年前、1945年にアメリカに戦争で敗れた。
敗れたからその後は常にひざを屈して、平身低頭言いなりになり続けている。
アメリカにとっては非常にお得な状況だし、これを維持した方が国益に適うので、日本に対して、敢えて助言も指摘もしないし、積極的に是正に関わらない。
それどころか、この超お得な現状を維持する為に、多かれ少なかれ工作をしているのは明かである。
これを最大限に利用しているのが、いわゆる反日国家と呼ばれる国々であり、反日的と指摘されるある種の利権団体である。
「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」と命じたのは東条英機であるが、「負けるなら死ね」、「生き残ったなら、辱めを受けるのは当たり前」、こうした呪いでもかかっているのだろうか。(戦陣訓)
この呪いとアメリカの行った「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(英語:War Guilt Information Program、略称:WGIP)」は非常に相性がいい。(ウィキペディア)
加えて、哲学、思想、理念、信念、歴史、文化、政治、生活、教育とあらゆる日本人を取り巻く環境から「暴力」を奪われた日本人は、現実社会で、想定外に、暴力に出会った時に、どのように対処して良いのか分からない。
みんな仲良くという理念は現実社会では立ちゆかない。
先日の、新幹線車内での男女3人殺傷事件において、非常に勇敢な正義漢が一人犯人に立ち向かって命を落とした。
多くの人がその勇気と行動力に賛美を送ったが、その彼にしても「どう戦うか」は分からなかった。
ナタを振り回し、他人の命を危険にさらしている男は、やさしく羽交い締めで取り押さえるのではない。
鈍器でも何でもいい、頭に叩きつけて割るくらいの気持ちでやらないと、一般人には太刀打ちできない。
件の事件をニュースで知った韓国人が「ベルトを使うべきだった」というコメントをしていたそうだ。
彼らのほとんどは軍隊で、いかに暴力を使うべきか、いかに制圧すべきかなどの訓練を受けている。
また、同様にツイッターやSNSでは、どうして他の男が助力しなかったかが問われているようだ。
しかし我が国の憲法(日本国憲法)前文には、「われらの安全と生存」は他人に任せると大きく宣言している。
この精神を体現しているのではないのか。
この精神を現場に落とし込んだ教育や社会の価値観がこうした現象を起こしているのではないか。
また、こうした時のみ「男性はなぜ助力しないのか」と男性ばかりに責任を押しつけたり、「欧米ならみなが協力した」と欧米諸国の一面のみを切り取り批判する人もいる。
しかし、欧米でもどこでも、女性だって女性の出来る範囲で助力する。
強力ではなくとも、それだって大きな力になるし、その雰囲気は男性の行動を後押しもする。
場合によっては、訓練を受けた女性が犯人を制する事も多々あるだろう。
そして、常に戦争をし、軍隊を世界中に送り込んでいる欧米と、その社会的な環境、雰囲気の中で生きている欧米人達と比較したいなら、日本の軍事的な自律を認めないと不公平となるだろう。
日本における弱気を助ける価値観の多くは、武士道に依るところだ。(欧州なら騎士道か)
戦後、武士道は、徹底的に否定され、いまだに忌み嫌う組織や活動が活発な日本で、このような精神的な拠り所が相当消えてしまっている。
安全、生存、命、全ての自分自身で守るべきものを他人に任せきってきた日本という国家と、その思想、価値観、教育、文化がこのような事態を生み出していると言えないだろうか。
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