「羽鳥慎一モーニングショー ( テレビ朝日)」という番組がある。
とくにファンではないが、テレビが点いていて、たまに見かける事はある。
この番組に玉川徹さんと言う人が良く出ている。
今日は、愛知県で開催中の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」について語っていた。
いわく、名古屋市の河村たかし市長は、憲法で制約される身であり、芸術かどうかを判断したり、中止したりすべきではない。
ただ、場の平穏、安全を図るのが仕事だ。と言うような主旨と思う。
確かに市長が1人出て来て、いきなり開催間際に中止するのはおかしいと言える。
公共団体が、税金を使って行なう催しならば、本来、初期の段階で適切に判断し、対処しておくべき事だ。
このような事態に追い込まれたのは、1人河村市長だけの責任とは言えない。
行政機構の中で、十分に常識や社会理念、主権者の意見が反映されるような仕組みが無かったり、活用されていなかったために、特定の勢力や、思想の流れに影響されたと思う。
長年にわたる不作為の結果と言えるだろう。
玉川徹さんは「芸術かどうかは見る人によって変る」と語るが、全ての表現は受けとる側によって意味が変ってくる。
当該作品を見て、心が揺さぶられ、あるいは高揚し、感動し、何か芸術的な感慨を得る人もいるかも知れない。
「ほとんどの人が芸術と考えなくても、たとえ少数であっても、3割であっても、芸術と思う人がいるなら芸術だ」
玉川さんは主張する。
では芸術とは何か?
芸術とは、表現者あるいは表現物と、鑑賞者が相互に作用し合うことなどで、精神的・感覚的な変動を得ようとする活動。 |
とある。(簡略化しました)
極端に雑に言ってしまえば、ある人、物と、それに接したした人が精神的・感覚的に変動すれば芸術になる。
それなら、不謹慎な話ではあるが、この方の身内の方のお写真で、同じ事が行なわれたら、芸術なのか?
誰かは「芸術だ」「高揚した」というかも知れない。
特定の人ならOKで、その他の人ならNGなのか。
ほんの少数の人でも、精神的に変動すれば芸術なら、ほぼ全ての人の行為、活動は、詭弁すれば「芸術」と主張できる。
今では世界的に禁忌、モラル違反、或いは非常識と考えられ、禁止されるような言動や活動であっても「芸術」だと逃げ口上出来る。
「芸術」は言い訳や隠れ蓑に与える言葉ではなく、人間として真心に恥じない、人様の心を気遣える、前向きな活動や作品に堅持して欲しい言葉だ。
writer: 羽家吾穂