BBC News Japanに以下のような記事が載っていた。
特にこのサイトをチェックしているわけではないので、たままた目についてさっと目を通して、あれという違和感を持ったので、それについて書いて見る。
【寄稿】ロイヤル・ウェディングはアフリカ系米国人にとって画期的だった
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-44195159
(英語記事 Viewpoint: The Royal wedding was a landmark for African Americans)
英王室のハリー王子とアメリカの女優メーガン・マークルさんの結婚式は、たまたま、運動中にチラ見したFBでLIVE放送を見つけ、興味深く拝見した。
とても素敵で幸せな雰囲気が伝わる豪華で美しい式だった。
メーガンさんが「黒人女優」というカテゴリ分けなので、おそらく通常なら見ないくらい多くの黒人が式に参列していた。
聖歌隊や、チェロの奏者もわざわざ選んだんだろうし、式典を取り仕切った当局の気遣いはいかほどだったろうかと同情し、また、日本で同じ様なことがあったら、ここまでやるだろうか、やらないとしたら、それはまた外交上、国際社会(欧米)からの非難の的になるのだろうなどと入らぬ心配までしていた。
ところで、この記事では、人種の違いを強調し、そして、ハリー王子とメーガンさんの結婚で、この人種の壁が無くなって和解が進むかのような印象を与えている。
もちろん、それはあると思うが、全体から見たら、弱々しい、限られた力しか持たないと思う。
彼らの影響力は絶大だが、同時に特殊なのだ。
メーガンさんはアフリカ系アメリカ人と紹介されるが、父親がヨーロッパ系で、母親が黒人(アフリカ系)とのこと。
父親がアイルランド系とオランダ系とWikipediaで解説される一方で、母方は素性がはっきりしない。
おそらく黒人奴隷として連れてこられたアフリカ人の家系かと思われる。
ならば、当然、100%純潔なアフリカ系なのかにも疑問符がつく。
実際、メーガンさんの肌は、日本人でもいるくらいに明るい、言い換えれば黒くない。
人種が違うと言っても、せいぜい1/2以下しか違わない。
1/2以上がヨーロッパ系ならば、ヨーロッパ系の黒人という表現でも良いし、ヨーロッパ系のアメリカ人でも良いはずなのだが、ここは今は議論しない。
対して、私がさっと見た感じでは、メーガンさんよりも明るい肌の黒人は列席者の中には見当たらないようにも感じた。
当該ニュース記事のライターは自身がアフリカ系と称しているが、では、メーガンさんが英王室入りした事で、彼の待遇が英国や米国、世界で変るのだろうか。
これは、記事内で力説しているほど効果は無いと思われる。
圧倒的なカリスマがどんな人種でも構わない。それはその人の他のずば抜けた特質で非常に小さな属性に変ってしまうから。
同様に、メーガンさんがサセックス公爵夫人になったからと言っても街を歩く黒人女性には大きな変化はないだろう。
こうした主張や視点は、1人の日本人が世界で活躍したからと日本人が日本人全体が評価されたかのように喜んでいるのを、上から嘲笑して揶揄するような記事を書く同じ人達(メディア)が書いているとは思えない。
結婚したのは当事者2人であり、記事筆者も、その友人も家族も関係がないことだ。
記事では、多様性と進歩と言う言葉が出てくる。
これは何を指すのだろうか。
多様性が自己と違うと思うものを取り入れる事だとしたら、それは自己崩壊につながる。
進歩が、なにがしかのイデオロギーによる目標、ゴールに向かうものと定義したなら、そもそもそれを進歩と呼べるのか。単なる「進捗」だ。
全てが全く同一と言うものがあるとすれば、その集団を一方の極として、その反対が多様性だ。
つまり、多様性というものは0から∞までの段階があり、その段階に応じて団体、組織、地域、文化、社会、国家と入ったような集団が、同心円状に広がりを持つ。
通常、親友や同士と言ったきわめて強い絆でつながる集団は、非常に同一性が強い。
親子、家族などは遺伝子レベルで同一性が強い。
ここで、絶対的な多様性しか認めないとしたら、その時点で多様性と言う概念がなくなってしまい、多様性は崩壊して、再び、内部から同一性が発生する。(同一性多様性同時存在)
朝は寝るものと言う信念のものと、朝は起きるものという信念のものとは一緒に生活が出来ない。
多様性とは同一性を排除するときに自己矛盾を起こす。
私たちが、結局は同じような趣味や、性格、嗜好の人達といる時に安らぐように、生活に基礎は同一性であり、それを活かす形で、非同一性が薄い状態から濃い状態へと周りを取り囲む。
無理やり人為的に破壊すると大きな反動に苦しめられることになるだろう。
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